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漫画制作日記
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今まで漫画を描いてきて、
ジャンルがスピリチャルだと思えました。
哲学・精神世界について描きたかったので、
そのテーマに関心のある人たちに
読んでもらえればと、新しいブログを立ち上げました。
ハンドルネームは「漫画描きバニヤン」です。

こっちもブログも
よろしくお願いします。

http://ameblo.jp/tzedaka


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科学的世界観

桜井 登(著)   近代文藝社 から引用

第4節  意識及び意志
1 意識の操作
 われわれの大脳の活動の相当部分は、無意識のうちに行われている。
眠っている間も神経系によって複雑な代謝がちゃんと調節されているのは、
意識しないでもニューロンの作用が行われているからである。

大脳皮質の知覚領に針金を差し込んで電流を流してやると、
その人は刺激された場所に対応する身体の部分がヒリヒリ痛むと訴える。
聴覚領を電気的に刺激するとガランガランという音の感覚が生じ、
視覚領を刺激すると火花が見える。また、
脳幹の食欲中枢の適当な場所に電極を差し込んで電気パルスを送ってやると、
動物は食欲を示して食べ続け、逆に満腹中枢を刺激すると、
まったく食欲を失って飢え死にする。サルの脳幹にある不快中枢を刺激すると激しい怒りの感情を表わし、
毛を逆立ててうなり声をあげ、
歯をむき出しにして近づくものに見境なく噛みつき、ひっかく。
ネズミの快楽中枢に電極をうずめ、
一種の電鍵でネズミが自分で刺激できるようにしてやると、
ネズミは一時間に何千回もそれを押し続け、1日でも2日でも押し続ける。
人間の場合も、脳内のある場所を刺激すると、
恐れ、怒り、不安、弛緩、恍惚などの感情が起こる。

薬によるコントロールもある。
おとなしいネズミの脳の視床下部の側面に細い管を差し込んで、
カーバコールまたはネオスチグミンという薬を流し込むと、
途端に形相もすさまじく、隣のハツカネズミの首に噛み付くようになる。
また、狂暴なネズミにメアルアトロピンという薬を与えると、
すっかりおとなしくなって他のネズミに飛びかからなくなる。
人間でこのような実験をすることはできないが、アルコール、マリファナ、
興奮剤等によって、感情や気分を変えることができるのは承知のとおりである。麻酔剤や、精神安定剤、幻覚剤として脳に効くものの多くは、シナプスでやり取りされている神経伝達物質と化学的に近い性質をもつ物質である。
 一時期、頭蓋骨に穴をあけて前頭葉を切り取る、ロボトミーという手術が分裂病などの患者になされたことがある。前頭葉を切り取られると、自発性や創造性を失い、意欲のない無気力な人間になってしまう。目の奥の眼窩脳をほんの少し吸い取る手術をすれば、死にまつわる悩みが消える。自殺癖のある人もこの手術をすればとまり、脳腫瘍でここを犯された人は、死が近づくのを恐れずにほがらかに死を待つ。また、脳の中に腫瘍ができて脳の怒りの座が刺激されたために、子供好きの優しい青年が突然殺人鬼と化して、15人を殺害した事件がある。
脳卒中による出血や梗塞で脳の一定部位に疾患を受けた人には、それに対応する一定の精神障害や心理症状が生じることはよく知られている。
 以上のように、電気刺激、薬、手術等の方法によって、
人間の感情や心理や精神活動は容易に操作し、破壊することができる。
この操作には確実性があって、これに反抗することはできない。
この意味では人間は、思いのままに変えられる電気化学方程式であると言える。


3 自由意志
 大脳の機能について以上のような立場に立つならば、
自由意志の問題は明白である。
物理化学の法則に支配された宇宙の中に、自由の存在する余地はないと思われる。すなわち、自由意志などというものは存在しない。
心あるいは精神現象と呼ばれるものも、大脳における一種の物理現象であり、
物理現象には一定の法則がある。
われわれの選択や判断は大脳の複雑に配線された
介在ニューロンの電気回路で自動的に行われ、
自由意志の介入する余地はどこにもない。
この点に関しては、コンピュータによる工場の自動制御と本質的な差異はないのである。

既に述べたように、
人間には物事を何とかうまく説明しようとする自然の傾向がある。
われわれの言葉そのものが、
原因の後に結果が続くような話し方をするようにできている。
簡単な現象の場合は原因をすぐに見つけて、
現象をうまく説明することができる。
しかし、その当時の知識をもってしてはどうしても正しい
説明のできない現象もある。
その場合に人間は、知識が豊富になって説明ができるようになるのを待つことをせず、勝手に原因を発明してしまう。電気というものを知らない間、人間は雷を説明するために雲の上に雷神がいるという説明を受け入れてきた。同じように、生きているものと生きていないものとの違いは、生命あるいは生気が存在するという仮定のうえに立って説明された。そして生命を持っているもののなかでも、人間のように意識を持って意図的に行動するものとそうでないものとの違いがあるので、この違いは説明されなければならない。こうして、人間の行動の説明原理として、自由意志というものが発明されたのである。
 こういう説明の仕方は、白いものと赤いものを比べて、
赤いものは赤い色を持っているのだと説明する仕方に似ている。
ものが赤いのは、「赤い色」の素があるからではなく、
ある一定の振動数の光をそのものが反射するからである。
「赤い色」などという特別なものを仮定しなくともものが赤いのを説明できるように、また、雷神などというものを特別に仮定しなくとも雷が説明できるように、生命や生気などという特別の実体を仮定しなくとも、生命現象を十分理解できることは既にみてきた。精神現象についても同様である。人間の行動は大脳の電気化学的現象の反映であり、大脳の構造とその電気化学的状態、身体各部から送られてくる電気パルス、及び外部から得られる感覚情報を検討することによって、原理的には科学的に説明しうるのである。
 もちろん人間がある決定をするとき、
外部の力によって決定が強制されるというのではない。
決定は、その人のもつ遺伝的特性や、
記憶、経験、習慣、その他が関係して行われる。
しかしそのことをもって、ただちに人間には自由意志があるということはできない。そのことは、現在の入力情報だけではなく、その人の何億というニューロンがどのようにして現在の配線をもつに至ったか、過去の入力によってどのような状態に置かれてきたかということによって、決定が左右されるということを意味するにすぎない。
 人間の身体を構成する粒子と外部の粒子との間に根本的な差異はなく、
その間には物質交代ということが行われている。
また、人間の身体を構成する物質に働く法則と、
外部の法則との間にも何ら違いはない。外部の物質の物理的作用も、
大脳のニューロンの電気パターンも、
強制力をもつという点において大きな違いはない。
したがって人間の行動が、それに関わる物質の構造と、
その活動状態だけでは決まらないというのが自由意志の主張であるとするならば、
自由意志の関与する余地はまったくないということになる。
われわれの思考や行動は、惑星の運動や雷などの自然現象と同様に、
基本的には、物質粒子に自然の力が作用することによって生じているのである。自由意志というような非物理的な作用で、思考や行動が制御されるというようなことはありえない。
 それにもかかわらずわれわれは、自分が行った行為について、
その行為は自分の意志によってなされたのだと考える。


どうしてそう思うのだろうか。それは実は、
そのように思うようにわれわれの脳が造られているからである。
人間の脳は、
並行して働く互いにある程度独立した機能をもつ、
多数のモジュールが共存して働くように構成されている。
そして、脳のそれぞれのモジュールによって造り出された行動は、
別のモジュールによって絶えず自分が造り出した行動だと解釈されている。
脳の解釈のモジュールは、
すべての行動の首尾一貫性という感覚を維持するべく、
どうしてそれらの行動が起こったのかについて解釈を行う。
つまり人間の脳には、自分の行為の原因を推測する機構があって、
その機構が働いて、
自分の行為の原因は自分の意志であるという解釈を造り出すのである。
同時にその機構は、自分(心)という観念を造り上げる。
の機構によって、人間の個人の自己存在意識と
自分の意志という観念が形成される。


   こうしてわれわれは、自然の法則に従った当然の結果を、
あたかも自分の意志でそうしたかのように思い込んでいるのである。

以下、「...saying yes to life in spite of everything」より転載。

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、
はじめから誤っているのです。

つまり、私たちは、
生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問いを出し私たちに
問いを提起しているからです。
私たちは間われている存在なのです。
私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、
「人生の問い」に答えなければならない、
答を出さなければならない存在なのです。
生きること自体、問われていることにほかなりません。
私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。
そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。

こう考えるとまた、おそれるものはもうなにもありません。
どのような未来もこわくはありません。
未来がないように思われても、こわくはありません。
もう、現在がすべてであり、
その現在は、
人生が私たちに出す
いつまでも新しい問いを含んでいるからです。
すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが
期待されているかにかかっているのです。 
その際、どんな末来が私たちを待ちうけているかは、
知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。 

以下 「夜と霧」 より転載。

さあ、わたしの番だ。
先ほど、だれかがわたしにささやいた。
(「見ている方から」)右は労働に、
左は労働不適格者や病人の収容所にやられるんだぞ。
わたしはなりゆきに任せることにした

――これを皮切りに、わたしは幾度となくなりゆきに任せることになる。
パン袋のおかげで体は左に傾げそうだ。わたしは背筋を伸ばし、しゃんとした。
親衛隊員はわたしをさぐるようなまなざしで眺めた。
不審に思ったか、疑念をおぼえたかしたらしい。
男はわたしの両肩に手を置いた。
わたしは「いかつい」感じをあたえようと、つとめて直立
の姿勢をとった。
すると男はわたしの肩をゆっくり回転させ、
わたしは右を向かされ――
そして、わたしから見て右のほうへ走った。

 夜になって、わたしたちは人差し指の動きの意味を知った。それは最初の淘汰だった! 
生か死かの決定だったのだ。
それはわたしたちの移送団のほとんど、
およそ九十パーセントにとっては死の宣告だった。
それは時をおかずに執行された。(わたしたちから見て)
左にやられた者は、プラットホームのスロープから直接、
焼却炉のある建物まで歩いていった。その建物には――そこで働かされていた
人びとが教えてくれたのだが――「入浴施設」といろんなヨーロッパの言語で書かれた紙が貼ってあり、
人びとはおのおの石けんを持たされた。
そしてなにが起こったか。それについては言わなくてもいいだろう。
すでに数々の信頼できる報告によって明らかにされているとおりだ。

 

絵を描くことによって、
傷んだ脳細胞が修復されていくような気がする。
生存のためのストレスが強まるほど、
絵や文章の創作意欲が渇望する。

戦争でシベリアの
捕虜収容所にいた日本画家の人の語るのをTVで
昔、見た。その人は食料も乏しい中、絵を描いていた。
彼がレンガを削って絵の具を作っていると、仲間たちが聞いた。
「なぜ、そんな事をするのか。お前は家に帰りたくないのか。
俺たちは帰りたい。家族に会いたい。」と言ったそうだ。
「私は生きて変えるつもりはありませんでした。」と彼は
言っていた。「しかし、仲間はみんな亡くなってしまった。
私一人だけ生き残ってしまった。」

芸術は人間の自然治癒力を高め、
生きる力を脳に与えるのだと思う。

絵を描く、文章を考える。歌う、踊る、演奏する。
あらゆる創造行動には生きる力を与えるものがあると思う。

現代社会は生産と消費を重視している。
その結果が病んだ社会を作っているのではないか。

そう考えると、これからの社会は
芸術をもっと重要視して良いのではないか。
 

申命記8 11-20

それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、
ついには、あなたをしあわせにするためであった

ヘブライ語では、「あなたをしあわせにするため」のほうが、
「あなたを苦しめ、あなたを試み、」よりも先に記載されている。

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